生物学コース 准教授 杉浦 直人
もう数十年も前のこと、大学4年生だった私は巨大な網室の中で大量の花を栽培しながらハチを飼養し、"仮説検証型"の進化生態学的な研究課題に取り組んでいました。しかし何年か続けていくうちに、野生動植物の形態や習性について観察し、未知の事象をみつけることも可能な"現象記載型"の自然史科学(博物学)の方がずっと自分に向いていると思い至りました。「知を深めていく過程よりも知の領域を広げていく過程の方が楽しい!」と感じたのです。現在は、食物報酬(花蜜・花粉)を与えずに昆虫をだまし、受粉をおこなうラン科植物の花粉媒介システムとその多様性に魅了され、鹿児島県・奄美大島を主な調査地として野外観察を続けています。
ところで、野外観察ではもっぱら自分の目だけが頼りですが、好奇心のおもむくままに花や花を訪れる昆虫を眺めていればよいわけではありません。研究対象として野生の生き物をみるという作業には"観察力"というある種の技量が必要です。それは、自分の経験・知識を駆使しつつ、"頭を使って観る力"あるいは"意識して観る力"のことです。霊長類学者の伊沢紘生さんはその著書『自然がほほえむとき』(2016年, 東京大学出版会)のなかで「観察する力とは、研ぎ澄まされた五感が受け取るさまざまな情報や事象に対し、直感力、類推力、洞察力、想像力、独創力の五力を、フルに稼働させることである。」と述べていますが、国内外で野外調査体験を積み重ねてきたこの著者ならではの至言だと思います。とにかく、研究対象の生き物を繰り返し観てはあれこれ察していると、無意識の思考から新たなひらめきも生まれ、おのずと事象に対する理解が深まり、本質が垣間みえてきます。
観察力はおそらく、画家や彫刻家、写真家といった人たちにも求められる能力で、サイエンスとアートには観察によって知り得たことを論理的にあらわすか、主観的にあらわすかという決定的な違いはあるものの、両者のまなざしにはかなり共通点があると感じます。ただし、サイエンスの対象として生き物を観察するときには"基本体制(ボディープラン)"と"適応進化"という要所を強く意識することを忘れてはなりません。すなわち、動植物の基本的な形状は分類群ごとに定まっており、その制約下で自然選択の過程を通じて合理的な形状が進化してきたことを念頭において観察にのぞむべきです。たとえば、ラン科植物の虫媒花の大きさ・色・形を観察するときは、ランという生き物の基本体制をよく理解したうえで、花の諸形質が花粉媒介昆虫の形態や習性に適合するよう変化しているか否かを見極めることが求められます。
以上、私自身が手探りで身につけた野外観察の気構えのようなことを書いてみましたが、要するに「野生動植物を適応進化の産物であるとみなし、考えながら観ること」の重要性を説いているだけで、それはまさに進化生態学的な動植物の捉え方そのものです。実は、進化生態学的な思考回路に沿って自然史科学的な現象記載を実践していたわけです。このことは、進化生態学的な研究課題から私自身が研究活動を開始したことに加え、生物学における唯一の統合概念である進化という目線の重要性をあらわしてもいるのでしょう。 ・・・ともあれ、この小文を読み、「眺めているだけではみえないものがある」と認識してもらえたなら、うれしいかぎりです。